栗山かよ子物語

岩手県大槌町に生まれ、やさしい父に育てられ

誕生
1961年(昭和36年)岩手県大槌町に生まれ、母は洋裁学校の先生をしていて、私と妹の洋服はいつも母の手作りでした。




3歳

母は私が5歳、妹が3歳の時心臓病で亡くなり、私たちは別々に親戚に預けられました。



小学校入学
当時、父は泊まりの多いホテルマンでしたが、子どもたちと一緒にくらそうと再婚を機に地元の商店に勤めました。2年後に離婚してからは父が男手一つで私たちを育ててくれました。父はとても優しく、夜寝るときによくお話をしてくれました。




岩手と伊勢原での遠距離恋愛

新婚中学、高校と吹奏楽部でクラリネット、サックスを担当し、中学校では県大会にも出場、生徒会の役員も。高校卒業後、茨城県の日立製作所の看護専門学校に通いましたが、半年で田舎へ。建設会社の事務員などをしていたとき、横浜の従姉の家で夫を紹介され、彼は伊勢原、私は岩手、1年間の遠距離恋愛を経て86年秋結婚しました。

子どもの姿に感動!

長男誕生
厚木に93年に引越し、3人目が生まれ、親子リズムに2,3年通いましたが、子どもはグループの中ではじっと見ているだけでした。
ある時、リズム体操のテープを借りてきて、自宅でそれを流したところ、一人で踊りだし、びっくりしました。みんなと同じようにやらないからと言って、できないのではない。子どもの内なる力を感じ、感動した瞬間でした。それ以後、子どもたちを育てるとき、あれこれ言わないのはこのときの思いがあるからです。

声を上げないと改善しない

交通安全母の会の役員の時、県央体育センター入口信号の歩道の水はけが悪く、信号待ちの子供たちが車道にはみ出して危険でした。
これを新婦人で毎年やっているウォッチングで市に要求し、すぐに改善。
その場所でないと実情はわからないし、声をあげないと改善にはつながらないことを学びました。

6万名の署名で県立厚木病院から市立病院へ

1999年5月、県職労愛甲支部厚木病院分会の書記に。そのころ、神奈川県は県立厚木病院の民営化を検討していました。県職労は「県立病院の民営化に反対する会」を地域の人たちと一緒につくり、反対運動を進めていました。私も毎日のように、みなさんと一緒にビラを配り、マイク宣伝、訪問対話活動にかけずり周り。一軒一軒、訪問する中で、市民にとって必要な要求は、話せば理解してもらえることを実感。署名は6万近く集まり、その願いは民営化ではなく、厚木市が受け入れるという形で実りました。
今、市立病院でお産ができなくなると大問題になっていますが、市立病院が市民の命と健康を守るよう働きかけます。

父との別れ

父と私のことをそのまま受け入れ、育ててくれた父も昨年11月、母のもとに旅立ちました。体調を崩し、入院したときは末期ガンで、余命わずかの宣告でした。日に日に弱っていく父を見て、私は在宅看護で見取りたいと思いました。入院中は、「なんの役にもたたないのだから殺してくれ」とまでいっていた父も同じような境遇の高齢者とふれあうなかで、ほっぁれ(鮭が産卵を終えて命を閉じること)と思っていたけど「生きてもいいんだ」ということを感じてくれました。それを聞いてほっとしました。朝日を見ながら一日が始まり、夕日を見てその日が終わるおだやかな日々に満足していたようです。父が亡くなる4日前が私たちの結婚20周年でした。次男がお祝いにケーキを作ってくれました。ほとんど食欲がなくなっていた父もケーキをおいしそうに食べてくれました。医師の予測をはるかに超える生命力でした。父との同居は、歩く、食べると言う当たり前のことが、とても大切なものだということを教えられました。そしてだれにでも必ず訪れる「命の老い」という問題を深く考えさせられました。
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  1. 2007/05/28(月) 19:32:26|
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